なにかの感想

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cero『poly life multi soul』~貨物列車は森の方へ~

私はこのアルバムをずっと楽しみにしていた。

店着日の今日、5月15日は定時に会社を退勤し、タワーレコードでピックアップ、自宅へ帰ってPCへ取り込みiCloud Music ライブラリにアップロードしIPhoneで聞ける状態にして再び外へ出た。

隅田川近くにある自宅からずっと都心方面へ歩きながらこのアルバムを聞いた。缶ビールを飲みながら、煙草を吸いながら。(なんだか『待ちの報せ』みたいですね。意識してる可能性がある。)*1

 本記事では『poly life multi soul』を聴いて感じたこと、想起したことを書き連ねていければと思う。

結論からいうと非常に難解だけれど素晴らしいアルバムだ。難しいことをやっているのは分かるのだけれどそれが「のれない」ということにつながっていない。

あとは蛇足に近いのだけれど暇つぶしにどうぞ。

 

ceroの(ほぼ)全作品がApple Musicで聴けるようになったみたいです。

 

 

 1.魚の骨 鳥の羽根

発売に先立って4月27日、本作のリードトラックである『魚の骨 鳥の羽根』のミュージックビデオが公開された。(例によってVIDEOTAPEMUSICによるクールなビデオだ。)

www.youtube.com

 

リズムは複雑だしサビも明確な抜け感があるわけではないので正直最初に聞いたときは「???」となった。いや、確かにかっこいいしやりたいことはわかるけどこれをリードトラックにするのか。ceroが持っていたポップネスは消え去っていた。

他の曲によっては訳の分からないアルバムになってしまう恐れもあるなと感じた。

ceroのことだから上手くまとめてくるのだろうなとは思ったけれど。)

 いずれにせよ、この曲をリードトラックにするということは*2だいぶニッチで難解なアルバムになるのかもしれないぞと感じたわけだ。

 

例えば下記の様な音楽の影響を受けていそうだ。

(私はこういう流行の先を行っている音楽に詳しいわけではないので他にも影響を受けてそうな曲があったら教えていただければ幸いである。)

 

2.荒内祐 

『poly life multi soul』の特設サイトに掲載されている磯部涼によるインタビューを読むと、本作が荒内祐の主導で作成されたことがわかる。

今回は高城昌平、橋本翼要素がだいぶ薄くなり荒内祐要素がだいぶ強くなった結果、一聴すると難解なアルバムになったようだ。

kakubarhythm.com

以前interFMで放送されていたceroの番組『night drifter』を聞いていて思ったのだけれど、荒内祐はceroのメンバー3人の中では一番先鋭的な音楽の趣味を持っている。

(「先鋭的な」というのは良い意味ばかりではなく聞いている人を置き去りにしてしまう危険性もある。)

今作にも顕著な様にブラック、アフリカン、アフロ、中南米と言ったキーワードで語れるように思う。高城昌平もたいぶ尖ってはいると思うがフォーキーな曲もよくかけていたりしていて荒内祐のセンスとは微妙に違う。そして橋本翼はceroの中では一番ポップなセンスを持っている。

前作、『obscure ride』でのceroはこの三人のバランスがちょうどよい塩梅になっていて洋楽の流行最先端を反映しながらもJ-POPとして成立するような音楽となっていた。

今作では恐らくわざとそのバランスを崩してきたceroだがライブの動員含めどう評価が出るだろうか。

 

 3.水あるいは川

本作を聴いていて「水」のイメージが強く喚起された。

隅田川近くを歩きながら聴いていたことや『waters』という曲があることが原因だと考えていたが、自宅に戻り歌詞カードを見てみて驚いた。

歌詞がある11曲の内、「川」という単語が含まれている曲が8曲もあるのだ。

「川」という単語が含まれていないのは『ベッテン・フォールズ』、『Buzzle Bee Ride』、『Double Exposure』の3曲だが、『Double Exposure』以外の2曲は「川」や「水」を喚起させるフレーズが存在する。

 

4.死者の影

前節で今作には水のイメージが多用されていることを指摘したが、水は生と死そのどちらをも私たちに思い出させる。

たとえば私は毎朝隅田川を眺めながら歩いて駅まで向かうのだが、そこには生のイメージが溢れている。水面に反射する光、川沿いをランニングする人々あるいは鳥たち。

一方で夜の川はどうだ。先ほど今作を聴きながら歩いてきたばかりだが夜の川には死のイメージが充満している。橋の欄干から下を見渡すと黒々とした水が見える。ここから飛び降りてしまえば私の生命は消えることが予想できる。朝いたはずの鳥たち、人々はそこにはいない。もしかしたら死んでしまったのかもしれない。

 

今作に限らずceroの歌詞には死者を思い起させるものが多い。

そして高城昌平の書く歌詞はフレーズごとの力が強い。例えば本記事のタイトルに使った「貨物列車は森へ」(『魚の骨 鳥の羽根』)というフレーズはどうだ。何個ものイメージが浮かんでくる。

結果どうなるか。ライブ中や今日の私の様に歌詞をすべて認識できる状態でなくても言葉、フレーズの持つイメージ喚起力だけで世界を作り上げていくことができる。

「obscure ride」発売後のライブツアーの一つに参加した私は断片的に聞こえる歌詞のあまりのおどろおどろしさとライブに漂う楽しい空気の乖離に少し背中が寒くなる思いがしたものだった。

 

5.レイモンド・カーヴァー村上春樹

本作の6曲目『夜になると鮭は』は橋本翼作曲のトラックに高城昌平のポエトリーリーディングが乗ったインタールード的な1曲なのだが、歌詞はすべてレイモンド・カーヴァーの小説から引用されている。

カーヴァーといえば「大聖堂」や「ささやかだけれど役に立つこと」が有名な作家だ。ちなみに私はどちらの作品も大好きだ。人生の苦みとささやかな希望を短編形式で描く作家である。

最近だと映画『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の中でマイケル・キートン演じる主人公が舞台上演しようとする演目として「愛について語るときに我々の語ること」が取りあげられていた。

高城昌平は以前雑誌『POPEYE』のインタビューで(コーナー名はなんといったっけ。巻末で映画と本を取り上げるやつ。)カーヴァーの妻であるテス・ギャラガーが『大聖堂』を妻側の視点から描いた作品を取りあげていた。また、村上春樹からも影響を受けている旨を語っていた。(ちょっとソースが不明です。思い出せない。)

 

『夜になると鮭は』という作品には聞き覚えがなかったので調べてみたところ、カーヴァーの短編集の名前らしい。現在は絶版になっているようだがアマゾンで購入可能だ。購入してこの詞/文の意味を考えてみるのも良いかもしれない。

 

また、村上春樹の影響は歌詞に色濃く現れている。Orphansなんかは「海辺のカフカ」で大島さんが話していたギリシャ神話の「人間はもともと男男と女女と男女だったが神様が怒って二つにした。それ以来人間は自分の片割れを探している。」という話を思い出させる。*3

そもそもceroの歌詞には並行世界が良く出てくるがこれも村上春樹的だ。村上作品の登場人物はありえたかもしれない可能性について常に思いを巡らせているし、実際に並行世界に移動したり(『1Q84』)、ありえるかもしれない可能性だけで生きていけると語ったり(『騎士団長殺し』)する。

 

 6.最後に

なんだかとりとめもない感想文というか『ぽりらいふまるちそうるをきいてぼくがおもったこと』みたいな文章になってしまった。

深夜のテンションで一気に書き上げたものを校正もせずに公開するものだから文章の質は低いし、事実を誤認している箇所があるかもしれない。

ただ、だとしても私はceroが作ってくれたこの作品をはじめて聞いた直後のこの感触、思い出したことを残しておきたいからこうして公開した。

 

「貨物列車は森の方へ」向かった。今後のceroを楽しんでいきたい。

内容に関しては後日ブラッシュアップしていければ。それでは。

 

*1:だからこのレビュー(感想文と呼んだほうが良いのかもしれない)は音声のみイヤホンで一周と気にいった曲のみ複数回聞いて書かれたものだ。今後スピーカーやライブで聞いて感想が変わる可能性が大いにあり得ることをご留意いただいて読んでいただければ幸いだ。

*2:前作のリードトラックが『summer soul』(大名曲だ!)という一聴してかっこよく、なおかつおしゃれでキャッチーな曲だったことを思い返してみれば特に。

*3:もちろん、こだまさんの名作「夫のちんぽが入らない」が下敷きであることは承知の上で。